陽に当たるテオブロミン

そのときに書きたいものを残す。ゲーム、書籍、この世の理。

タイプ

長年様々なコンテンツと触れ合っていろんな人を「推し」て来ました。西木野真姫桜内梨子中須かすみ、鷹富士茄子、園田智代子、ジータ、ディアンサ、サラシャ=シクザール…

その理由はいつもその時々で、

表情、体型、髪型、髪の色、優しさ、誠実さ、凛々しさ、歌が上手、芯の強さ、のような優れているところだったり、

自信のなさ、人に助けを求められないところ、素直になれないところ、のような弱さだったり、

僕にはとても曖昧で決まってこれが好きというものがありませんでした。ある人格に対して現れたのがその見た目で特徴だから、理解したものが好きになるのではないか。少しでも好きなところがあるならその特徴を受け入れて特徴ごとすきにならなければいけないのではないかと。

いつかアイドルグループ嵐松本潤が言っていた「タイプは無い、俺の好きになった人がタイプ」がその的を射ているようで、タイプと言うものは存在しないのではないかと。

それが悪い意味で顕著に現れたのがプリコネでした。一定水準以上好きになれる子は沢山いました。美食殿の3人、サレンとスズメ、ユイ、ヒヨリ、ちゃんと思い返せばまだまだいると思います。Re:Diveになってリリース初期からプレイしていて3年が経ちました。

推しはいませんでした。

それでも毎日続けていたRe:Diveですが、ある日1日「自主的にログインしない日」を作ったとき、それ以来さっぱりゲームをしなくなりました。

好きなキャラクターであるジータの別バージョンが出ないからかもしれないし、近藤玲奈さん演じるシェフィにあまり興味が湧かなかったからかもしれないし、メインストーリーの2部が面白くなかったからかもしれない。肯定的に捉えると、1部が満足のいくクオリティで完結したからかもしれない。3年間続けてきたことをいきなりやめることはとても不思議に思うのに、ゲームをやめたことに対して後悔や生活の変化、気持ちの変化は無かったのです。

 

ある時からライトノベルを読むようになっていました。きっかけはアニメ「アサシンズプライド」に、僕の「推し」の一人である楠木ともりさんが出演したことで、それにラノベ原作があることを知り、試し読みの末に紙の本を購入したことです。それ以前ライトノベルは小学校高学年ころに出会った「ソードアートオンライン」が始まりで、そのときにはあまりハマるというほどではないものの、退屈な休み時間を有意義に使うものとして利用していました。「涼宮ハルヒの憂鬱」「灼眼のシャナ」「ココロコネクト」など、はたまた小学校の図書館/図書室にあるような青い鳥文庫の「パスワード」シリーズ、「怪盗クイーン」シリーズ(怪盗クイーンは劇場OVAアニメ化するみたいなので実は今も少し気になっていたり)

それらはその時に絵があったことも相まって楽しめていたのだと思います。登場人物の絵があり、舞台がある。それを知っているから、文字だけの世界でないから僕の空想は成立していたのだと思います。それを裏付ける理由もまたあり、それが「オリエント急行の殺人」と「すべてがFになる」です。

どちらも、読みたいラノベのストックがなくなったときに家から取り出したものです。「オリエント急行の殺人」は先に野村萬斎主演のテレビドラマ「オリエント急行殺人事件」を見ていたこともあり、多少の違いはあれど内容がスラスラ頭を通りました。その時点では、ドラマ化されるほどの名作であるから、ミステリ作品だから楽しく読めていたものだと思っていたのですが、それは「すべてがFになる」を読んだときに覆ったのです。さまざまなメディア化があることは知っていたので期待していたのですが、文字から伝わる情報そこから世界が生まれない、人物から人物像が浮かばない、まるで別言語を読んでいるような錯覚を得ました。そしてまた、その感覚は初めてでは無かったのです。それが「灼眼のシャナ」を読んでいた時で、アニメをほとんど見ずにチラ見程度で、それが後半に進むにつれて情報が頭の中に入らなくなっていました。刹那という単語がたくさん使われていたことだけを覚えています。そこで一つ気がついてしまったのです。小説から世界を想像することはあまり自分には向いていないのではないかと。今だってそうです。理屈の上で成り立っている事柄や計算が成立していることには自信を持てるのですが、想像、あるいは創造、についてはどちらかというと不得意分野なのではないかと感じます。2年ほど前自動車運転の講習を受けている時一番悩みとなったことは「イメージ」でした。それがうまくいかないことにより運転に必要なパフォーマンスの力を制御することができない、本当に必要な注意を向けることができないということでした。それでも運転免許を取れたのは不注意の力によるものです。意識を絞り、注意を向けていることを教官に悟らせることで、真の集中を破り、事を成したのです。それが原因で恐怖が付き纏い、将来的に自動車運転をしようと思っていません。

そんな僕でしたが、なぜかアサシンズプライドはすんなり受け入れられ、次第に次のお話が読みたい、結末が知りたいと思うようになっていました。文字の世界の魅力に惹かれるようになりました。アニメは正直人にお勧めしたいと思えるものではなかったのに。それは、映像や音声で感じることができる感覚を脳が言葉を理解する感覚が上回った瞬間でした。ヒロインのメリダ=アンジェルが思う憧れと敬愛、主人公クーファ=ヴァンピールの矜持は文章からの方がより伝わったのです。そして再び僕はライトノベルにハマりました。

 

楠木ともりさんがあるラノベのPVに出演していました。それが「豚のレバーは加熱しろ」でした。推しが声を当てているから見ようか程度でしたが、試し読みで冒頭部分を見たときに、僅かながら僕には物語の世界の風景が見えました。そして初めて、新作の、広義の意味での小説を買いました。

そこで同時に買ったのが「声優ラジオのウラオモテ」です。これは声優の2文字を見て買ったと言っても過言ではありません。同じ時期に電撃文庫の賞を取った作品であり、豚レバがハズレだった時の保険だったようにも思います。しかしまたこの世界の風景もすぐに脳に馴染んでいました。ここで一つ確信したのです。声を知らなくても良い、映像がなくてもいい、想像に対して固く構える必要はないということに。

「声優ラジオのウラオモテ」の作者の二月公先生、「オーバーライト」の作者の池田明季哉先生の二人で行われたTwitterのスペースで行われたラジオ「グラフィティラジオ」ではキャラクターの作り方についての話がありました。二月先生はキャラクターの役割について話されていました。由美子と千佳の成長に対して、物語の進展のために与えられた役割、それがある上でどのような人格をもたらすべきなのかを。池田先生は逆にキャラクターがある上での物語が組み立てられているという話でした。(記憶は曖昧)オーバーライトはそのラジオの後に読んだのですが、ブリストルに住まう人物の考え方、生き方が生々しく伝わるこの作品に相応しい生み出し方であったと思います。

そこで…そこでの連続です。偶然の繋がりとはいえとても遠回りだと思います。電撃ノベコミという電撃文庫のノベル、漫画が少し読めるアプリの宣伝がありました。ここで遂に出会ってしまったのです。

 

「三角の距離は限りないゼロ」という作品に目が止まりました。三角の距離という一般に聞きなれない連なりだけが脳のどこかに置かれていたこの作品を手にし、向き合うことにしたのです。それを読み終わった時、

 

自分でも信じられない程の鼓動の揺らぎ、落ち着きを失いました。小説の一巻目を読む時の多くの場合、世界観や人物の理解が求められ、感動の域に達することはまず無かったのに、何故か心が揺れている。初めて出会った物語の中の秋玻と春珂に息吹を感じてしまったのです。

 

結論として、僕のタイプの人は、水瀬秋玻で、水瀬春珂です。この時点で3巻を読み終わっていますが、(書いている間に4巻が読み終わりました)彼女たちの笑顔に、涙に、眼差しに確かに心が揺さぶられています。切に幸せになってほしいと願いたいと思います。

 

アサシンズプライドの劇中にこのような話が語られます。

 

お互いの名前すら知らない男女が出会って1週間、結ばれない運命を悟り来世の幸福を祈って心中してしまう。そのとき二人はお互いの全てを理解できたのであろうか。

 

あくまで一説と会話の内容を噛み砕いたものではありますが、これは好き嫌い、選り好みができる現代の趣味、趣向において大事になるものだと思いました。見た目が良いから好きなのか、声が良いから好きなのか、そんなふうに人は自由に好き嫌いを持ってよくて、またそれをすべて説明し切るほどの理解を持ち合わせていなければならない必要はないということ。語彙力が無いから説明できないと言ってしまうより、自分の理解を超越しているからこその好きが存在してしまう事を認める方がいい。そうすればいつか自分の推しに対する「タイプ」である部分を新しく見つけたり、知っている特徴をより好きなものにできるのではないでしょうか。

 

僕は水瀬秋玻がタイプだ。

黒髪のショートカットで真面目な風貌、レコードと純文学が趣味の女の子。心を何一つ偽らない誠実さと物事を冷静に見ることができるところ。どこかに心の弱さがあるのに助けを求められなくて自壊してしまいそうな儚さ。

僕は水瀬春珂がタイプだ。

黒髪のショートカットで柔らかい風貌、少女漫画と可愛いものが趣味の女の子。持ち前の明るさとポジティブさをで誰かの支えになることができ、諦めを知らない芯の強さを持っているところ。

自分に自信が無くて上手く実力が発揮できなかったり、自己犠牲的な行動をとってしまう。

 

まだ二人のことで知らないこともたくさんあるけれど、それでも幸せになってほしい対象である人に変わりは無いと、ここに残しておきたい。

 

これは僕の真夏の戯言です。